零式艦上戦闘機の1

説明 展示されてる博物館
 言わずと知れた『零戦』(ゼロ戦は間違いとの説も有るが恐らく併用されてたと思う。)

 1937年5月、当時は日中戦争(正確には支那事変 事変とは飽く迄『紛争』であり宣戦布告は行われない。その為に中立国からの物資売買が可能。当時中国は兵器を日本は資源を中立国から購入する必要が有った為に双方とも宣戦布告を行わずに事変として処理した。)の最中であり、日本側は中国に対して長距離爆撃を行う必要が有った。

しかし、海軍の主力戦闘機である96式艦上戦闘機は航続距離が不足していた事から爆撃機(96式陸上攻撃機)は護衛に支障をきたし、爆撃機の損傷が相次いだ。

 そこで三菱及び中島飛行機へ『武装は20mm機銃・7.7mm機銃それぞれ二門、迎撃戦闘機・護衛戦闘機として使用可能で高度4000mで最高速度が500km以上、巡航速度で6〜8時間飛行可能かつ96式艦戦に格闘戦に劣らない艦上戦闘機』の要求が海軍から出された。
しかし、迎撃戦闘機と護衛戦闘機と言うのは明らかに相反する性能が求められており、非常に欲張った要求であった。
三菱は堀越二郎技師をチーフに据え試作を開始した。

 1938年1月、軍民合同の研究会にて海軍側から先の要求を満足させる事を求められたが、その際に中島飛行機は実現不可として試作を辞退し三菱のみの制作となった。

新戦闘機のエンジンには軽量・小型で出力が875馬力ある三菱『瑞星エンジン(三菱のエンジンは星関係の言葉が命名される)』が装備される事に決まった。
超々ジュラルミンが材質に使用され、突出風防を使用する事により視界を良好にする等の工夫がされた。

 新戦闘機について度々議論が行われたが、源田実少佐(後の南雲機動部隊航空参謀)と柴田武雄少佐(当時、空技廠実験部所属)の間で格闘戦重視した軽戦(源田)か操縦員の技量でもどうにもならない速度(+航続力)を重視の重戦(柴田)かで争われたり、現場から20mm機銃不要論及び長大な航続力は不要との論が出たりしたが、結局三菱が格闘戦重視・航続力大の案を海軍に提出し、その案が採択された。


 1939年3月16日に試作機が完成し、翌日にエンジンテスト、翌々日に制作した三菱名古屋工場から牛車でテスト飛行場まで運ばれて各種テストが行われた。
テスト飛行の度に欠点を見つけ修正を繰り返し、1939年9月14日には十二試戦闘機(十二は開発開始の年度を表す)として納入された。
ちなみに二号機はテスト飛行時に急降下を行い空中分解してパイロットが死亡している。

 後に正式名称がA6M1(6番目の戦闘機で改良なしを表す)とされた。
試作三号機以降は新しく中島飛行機が開発した『栄12型エンジン(950馬力)』の装備に変更された。《これは後のA6M2(エンジンを交換した為に2になった)》

 当時の前線では先の『長大な航続力は不要』との意見とは逆に状況の変化から『航続力の大きい戦闘機』に変わっており、A6M2を先行量産して40年7月21日に中国大陸に配備される事になった。
同年7月31日に零式艦上戦闘機11型(12試艦上戦闘機)と正式に命名された。

(以降は『零式艦上戦闘機の2』に書きます)

12試艦戦
全長8.79m 幅12.0m 高さ?m 重量1.652t(全備重量2.343t)
武装20mm機銃×2、7.7mm機銃×2、30kg爆弾もしくは60kg爆弾×2
最大速度 時速491km  航続距離 ?km  生産数 試作機2機のみ

零式艦上戦闘機11型
全長9.05m 幅12.0m 高さ?m 重量1.695t(全備重量2.338t)
武装20mm機銃×2、7.7mm機銃×2、30kg爆弾もしくは60kg爆弾×2
最大速度 時速533km  航続距離 3100km  生産数 64機
零式艦上戦闘機21型
河口湖自動車博物館
(飛行館)
注 期間限定公開です。


零式艦上戦闘機32型
名古屋空港
注 移転した。

零式艦上戦闘機52型
靖国神社

航空自衛隊
浜松基地内広報館
『エアパーク』

スミソニアン
航空宇宙博物館


零式艦上戦闘機62型
大和ミュージアム
写真は河口湖自動車博物館 飛行館にて撮影した零式艦上戦闘機21型
飛行館は普段は非公開の期間限定公開です。現在は撮影不可との事。
左下は脚部&30kg爆弾懸架装置 右下は翼端の折り畳み部

写真は河口湖自動車博物館 飛行館にて撮影した栄12型エンジン
参考にした本
第二次大戦ブックス1 零式艦上戦闘機 日本海軍の栄光

戻る

トップへ