T号戦車( Pzkpfw1 )

 ドイツは第一次大戦に敗北し、ベルサイユ条約にて戦車開発を禁止された為、スウェーデンにドイツ資本でランツベルク社を作り技術を獲得し、またソ連とも密約を結びソ連領内に共同の戦車訓練学校兼試験場を運営し、戦車技術の研究・開発を行っていた。
それらの研究の結果、走攻守のバランスが取れた中戦車の開発が求められたが、まず訓練用の戦車が求められ、1932年機銃2挺を装備した重量5tの軽戦車の仕様をMAN、ラインメタル、ダイムラー・ベンツ、クルップ、ヘンシェル5社に提示された。
このうちクルップ社の案が採用されたが、ベルサイユ条約の関係で戦車と名乗れずTA LaS Krupp(LaSは『農業用トラクター』の略称)と呼ばれ、1933年12月から量産が開始された。
生産開始直後は戦闘室・砲塔の生産が過小だったので、車体のみ(つまり砲塔無しのオープントップ状態)で部隊に配備され『クルップの風呂桶』とも呼ばれた。
運用の結果出力不足が判明し、当初装備していたM305エンジン(57馬力)からNL38TRエンジン(100馬力)に変更し、車体を延長する為に転輪を1対増やす等足回りを改良したTB LaS Mayを製作した。
1937年に戦車型の生産が終了したが、車体のみが1939年初めまで生産が続けられた。
T号戦車と名称が変わったのは1938年で、1935年3月6日にヒトラーは再軍備宣言を行っており、既に農業用トラクターと偽装する必要が無くなったいた。
A・B両型とも訓練用のため武装は7.92mm機銃2丁のみ最大装甲は13mm。
A型の砲塔を取り外し固定式の構造物を取り付けた指揮戦車が作られたが6輌のみの生産で終わり、B型をベースに量産された。

 初の実戦参加は1936年からのスペイン内戦でフランコ軍に参加したが、装甲が小火器にしか耐えられず、共和国側の戦車(ソ連製戦車は45mm砲を搭載していた)に歯が立たないことが判明した。
しかしV・W号戦車の実戦配備の遅れから、大戦初期は実戦部隊に配備されることになったが、元々装甲が薄い軽戦車に過ぎず特にフランス侵攻時は多大な被害を蒙った。
V・W号戦車が生産されるにつれ徐々に交換されていったが、ソ連侵攻の為に機甲師団が倍増されると戦車数の不足から第一線に配備される事になり、1942年頃まで使われた。
(流石に少なくなっていたみたいだが)
V・W号戦車配備後は訓練部隊や警備部隊配属となるか、T号自走重歩兵砲(sIGTB)やT号対戦車自走砲(PzJagTB)に改良された。

なお、T号戦車の後継車輌としてC・F型が開発されている。
T号戦車C型は軽偵察戦車もしくは空挺戦車として、T号戦車とは別に、新規開発(改良でない)された物であり、1939年9月には生産命令が出されたが、完成は1942年7〜12月と遅れている。
武装も20mm機関砲と7.92mm機銃を装備しており、T号戦車の改良型と言うより、U号戦車の小型化した物である。
同じくT号戦車F型はマジノライン突破時の歩兵支援用として新規開発された。
武装はT号戦車と同じく、7.92mm機銃2丁のみで、武器で支援するのでは無く、盾として支援する(悪く言えば囮)様に、前面装甲80mm、側面及び背面は50mm、重量は18tと装甲と重量は中戦車並になっている。
その為、最高速度が時速25kmと軽戦車の割には遅い。
しかも開発に時間が掛かった為、完成した時にはフランスは降伏してた。
何の為に造ったんだか・・・

T号戦車A型 全長 4.02m 幅 2.06m 高さ 1.72m 重量5.4t 最高速度 時速37km
       装甲 前 13mm 横 13mm 後ろ 13mm
T号戦車A型
ムンスター戦車博物館


T号戦車B型
アバディーン戦車博物館
移転済み


T号指揮戦車
(B型改造型)
ボービントン戦車博物館
画像はムンスター戦車博物館のT号戦車A型
画像はアバディーン戦車博物館のT号戦車B型

ボービントン戦車博物館のT号B型改造型指揮戦車

T号戦車A型を回転させてみた
参考にした本
ジャーマンタンクス (大日本絵画)
オスプレイミリタリーシリーズ 世界の戦車18 ドイツ軍軽戦車
ドイツ戦車発達史―戦車ものしり大百科 (潮書房光人社)
戦車名鑑1939〜45(株式会社光栄)
WWUドイツ軍兵器大図鑑(株式会社グリーンアロー出版社)等

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